鉄道駅、観光物産館、レストラン、産直施設が併設する『道の駅のだ』
『道の駅のだ』といえば塩を運ぶ牛方像が有名ですが・・・
その並びにある、久慈市出身の小田観蛍 が詠んだ歌碑をご存じでしょうか。
「観蛍ふるさとは 路傍のうなゐ 荷車を輓ける牛さへ 見過ぐしがたし」平成五年 野田村芸術文化協会建立 南 奎雲書
うーん・・・短歌とか詩にうといので、
ふるさとでガタガタ走ってる荷車を引く牛ぐらいにしか読めませんね・・・ ←ひどい
そもそも短歌は「そぎ落とし(引き算)の美学」とも言われるように、五七五七七の31文字にすべてを表現せず、あえて隠して作品の解釈を読み手に委ねているそうです。そうだったのかー!
作者の人となりや時代背景などの知識が、解釈の助けとなるのですね!!
頑張ってひも解いていこうとおもいます
ではまず、作者について
大正・昭和時代の歌人で教育者の小田観蛍 (1886-1973)は
岩手県宇部村(現久慈市)出身で、14歳の時に両親と共に北海道小樽に移住。
50年に及ぶ教員生活のかたわら、短歌を詠み続けました。
日本歌人クラブ名誉会員、第1回北海道文化賞、北海道新聞文化賞受賞、第1回小樽市功労者(教育文化)表彰。
大正8年に刊行した歌集『隠り沼(こもりぬ)』は高く評価され、一躍歌壇(歌人たちの社会)に認められました。
観螢の人生には幾度もの試練があり、『逆境の歌人』と呼ばれています。
独自の『北方的生命感的叙情』(なお北を目指す、自分を追い込んで突き詰めていく?)の理念を打ち立て、北海道の自然と人生の厳しさをうたいました。
地元・宇部小学校の校歌の作詞もしており、久慈市内各地(小袖など)、普代村にも歌碑が建てられています。
その時代について
観蛍がまだ久慈市にいた明治30年頃は徒歩の時代。牛や馬が引く荷車が道を行き交うのが日常だったでしょう。
多くの牛馬を飼っていた農家では、住居と馬屋(家畜棟)がつづきになった『曲がり家』タイプの家屋も多くありました。
ちなみに牛といえば塩ですが、塩の運搬には牛に荷鞍を着けていたようですので、野田民族誌にも『林業や建設関係者が用いていた程度で、村内一般にはあまり使われていなかった』とあるように、そういった関係の荷車の様子を詠ったのでしょうか。
また、明治29年は明治三陸地震津波(野田村では死者358人)があった年。その辺も関係あるのか・・・
そういえば前の記事で書いた玉川端の巫女さんも、この津波で亡くなったと書いてあったので同じ時代を生きていたんですね。
もしかすると、津浪で多くの人が亡くなり、集落や家々が流されたふるさとの今を案じたのかもしれません。
ちなみに平成5年に「道の駅のだ」が道の駅指定された時に歌碑を建立したようです。
文字を書いた南 奎雲氏は、平成27年秋の叙勲で瑞宝双光章を受章されています。
文字を書いた南 奎雲氏は、平成27年秋の叙勲で瑞宝双光章を受章されています。
旅先あるいは地元で目にする歌碑。作者が作品を詠んだ時の状況のすべてを知ることはできませんが、長い時代を経て、歌に込められた想いを読み手に感じてもらうことは、作者にとって嬉しいことでしょう。
皆さんもぜひ、旅先で歌碑を見つけてみてはいかがでしょうか。
先人の想いのみならず、詠んだ場所の特徴や、当時の生活事情に触れることができるかもしれません。
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