野田の一つ橋 歌碑

先日雪が舞い、今朝は霜が降りましたsign01
水道の水がしゃっこくて、久しぶりに手が「キーーンshock
 
冬の到来とともに風邪も流行ってきており、しっかりと感染予防に努めなければなりませんね。
 
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まだまだ十府ヶ浦公園のパークゴルフは賑わっていますね~
動いているうちに暖かくなるのかな・・coldsweats02
 
平成29年に完成した十府ヶ浦公園
 
この遊歩道はみちのく潮風トレイルのルートにもなっていますが、パークゴルフ場から泉沢川を挟んだ多目的活動広場の端に歌碑が建っています。
 
 
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遊歩道からは小さくて見えないけれど、歌碑が建っています。
歩いて行ってみます
 
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泉沢川のたもと、国道45号のすぐ下
 
 
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歌碑には東日本大震災の時の傷跡がたくさん付いています。
 
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台座を含めると私の背より大きい。
公園造成時に改めて設置しなおされたのですね
 
朽のこる野田の入江の一橋 こころ細くも 身ぞふりにける
 平政村朝臣(夫木集巻廿一) 

年経ればかわれるものや 今野田乃(の) 入江もなみの磯と成りけり
 高山彦九郎正之

この地 ひとつ橋は 通称とどろき橋、別には高橋、又 途絶えのはしといわれ、往古より歌枕の名所なり
 昭和五十八年八月 野田村
 南 奎雲書
 
一つ目は『夫木和歌抄』より、平 政村が詠んだ歌で、平安時代前期の巨大地震「貞観じょうがん津波」の記録だったそうです。
二つ目は高山彦九郎が寛政2年(1790)9月16日、この一つ橋を通って野田玉川まで旅をした折に詠んだ歌。
(和歌を現代訳してくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひお願いしたいです...coldsweats01
 
 
江戸時代後期の尊皇思想家・高山たかやま彦九郎ひこくろう(1747-1793)は、江戸、京都、水戸をはじめ、蝦夷を目指して東北など日本中を歩きまわり、旅を通して様々な人々から学び、庶民の生活の実態など多年にわたり詳細な日記を書きつづけていたそうです。
 
江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した3人として、林子平・蒲生君平とともに『寛政の三奇人』と呼ばれている有名なお方。
 
現在の群馬県太田市の生まれで、同市には太田市立高山彦九郎記念館があり、また幕府からの迫害を受けながらも全国各地を旅し、最期に久留米の地で自決したことから、その霊を弔うために福岡県久留米市の遍照院へんじょういんにお墓があります。
 
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京都・三条「高山彦九郎 皇居望拝之像」
 
その高山彦九郎の「北行日記」の中で
 
五日町を東に出て、大須賀の一本橋とて、五間計り橋を渡る。誠に木一本打渡し名に応うというへし。是れぞ夫木集改村の詩に
 朽残るのたの入江の一つ橋心細くも身そふりにける
とあるは此所なるべし。入り江と思ふは見えず、砂浜の広く南北の山の間十五・六丁もありて、その間は皆砂浜なれば、古くは入江なるべし。予よめる。
 年経ればかわれるものや今野田の 入江もなみの磯と成りけり 正之
 とぞ・・・・略』
 
と記されているそう。
 
野田入江の一つ橋は宮城県塩釜にもあり、はたして野田の入り江はどこか推測でしかないようですが
 
野田村の『五日町いつかまち』というと、昔は野田の街並みを市日の開催日から「五日町」と呼んでいました。本町のあたりですね。
 
大須賀オースカ』は浜の呼び名で、野田村の北側・中沢から、釜前たもと、長根、港浜、ウナギャ浜、川口(宇部河口)、韮畑、大須賀、沼尻(昔あった二つ沼の出水口付近)、赤台、米田、厚井・・・と続いており、「大須賀」は今でいう前浜周辺でしょう。
 
 
 
「一つ橋」はずいぶん前に撤去されたそうですが
 
別名を『途絶(とだえ)のはし』『轟き橋』、『高橋』とされていたそうです。
 
 「轟橋」とは、十府の浪音が、大須賀なる砂丘をこして、とどろいてくる橋であることをいい、「一つ橋」にはうら淋しい浜街道にかけられている、一本橋の面影がある。コンクリートやアスファルトの道になる以前は、まさに一本の大木の反り面をわずかに削り、歩き易く渡り易くしただけの「一本橋」があったのである。人は一本橋を渡り、牛や馬は流れを徒足歩るのである。その一本橋の片端には、手頃の穴をあけ、藤つるや太縄で頑丈に縛りつけてあった。流失を防ぐためである。
 しかし、そうしたとしても烈しい豪雨による洪水に橋を流され、時には津浪の災害を受けるのであり、土橋であった時代には、いわゆる「途絶えのはし」となるのである。又「高橋」とは橋脚を高くして、橋の流失を脱るべき構造を指してのことであろう。
 「一つ橋・轟橋・高橋・途絶えのはし」と橋の名を並べてみると、歌枕としての名称の外に、橋の持つ根本的な生成というか、時代の移り変わりをも物語っている。
―野田の詩ごころ歌ごころ より引用
 
泉沢川の上流は日形井という地区ですが、泉沢川はかつて「日形井川」と言って豊かな水量を誇り、この川の流れの生まれるところ和佐羅比わさらび山は野田富士と呼ばれ、一つ橋あたりから見上げる和佐羅比山、それを映す川面と十府ヶ浦との出会いは格好の歌枕の名所だったかもしれません。
 
当時は国道や防潮堤や松林もなく道から海岸線が見えただろうし、今では想像できないほど違った風景だったのでしょうね・・・
 
 
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国道45号に架かるのは轟橋
ひっきりなしにトラックや車が通ります
 
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都市公園(十府ヶ浦公園)に架かるのは新轟橋
 
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もう一つ陸側に架かるのはコウラゲ橋
 
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和佐羅比山が見えます
まだ雪は降ってないみたい
 
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三つ目の防潮堤として造られた十府ヶ浦公園を歩きながら、
 
波の轟の代わりに車の音が聞こえるようになったのだなぁと思うのでした。
 

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タグ:みちのく潮風トレイル, 句碑・歌碑, 十府ヶ浦公園

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Comment [1]

No.1

三陸高規格道路を大槌町の山の中へ、早い、昔の半分で着くという感じがした。旧45号線を野田村まで、大槌、山田、宮古(田老)、田野畑、普代、復興を象徴する豪華?な建物が建設されている。野田村はというと十府ガ浦公園、ホタテ?砂浜?なのかな、自然観が一番だった・・・が、リアスの道筋は不便だが魅力的だ、釣りはスゴイ・・・だが私の弟子?たちは何故か野田湾に来る。ゆったりできるかららしい。釣り公園も欲しいな。

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